40代のストリートアイコンなスケーター”江川芳文”選手って?PLUS L by XLARGEのデザイナーとしての一面も。

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プロスケーターでありながら、俳優やモデル、そしてファッションデザイナーなど、マルチな才能を持つことで知られる江川芳文選手。東京のストリートカルチャーを牽引してきた江川選手の半生や、これからについてを、過去のインタビューなどを参考にまとめました。

江川芳文選手のプロフィール

まずはプロスケーター江川芳文選手としてのプロフィールから見ていきましょう。スケートボードをはじめるきっかけや、「T19」「HECTIC」など、江川選手を知る上で欠かせない情報をまとめました。

元々はサーファーになりたかった

江川選手は1972年3月20日生まれ。東京都世田谷区経堂の出身です。スケートボードをはじめたのが1985年頃とのことですから、キャリアはすでに35年を超えます。

スケボーとの出会いは13歳の頃。ただし、はじめはサーファーの先輩たちに憧れを抱く少年で、チャレンジしようと思っていたのはサーフィンだったのだとか。サーフボードを買おうとショップに行くも予算が足りず、予約だけをして結局は購入できなかったという逸話もあります。

将来的にサーフィンをはじめようと思っていた江川少年は、「まずはスケボーから」と考えました。そこでスポーツショップに出向き、コンプロートデッキを購入。スケートボード界を牽引してきた現在の同氏からは想像もつかないきっかけだったと言えるでしょう。

15歳からはじまったスケート人生

スケートボードを手に入れた江川選手ですが、はじめの頃は道ばたでプッシュをして遊ぶ程度だったそうです。しかし15歳になってからは本格的にスケートボードに目覚めます。

当時所有していた板に満足できなくなり、原宿のスケートボードショップへ出向きました。そこで気の合う仲間ができ、ショップに入り浸るようになってからが、スケート人生のはじまりだったそうです。

また、海外のスケートシーンを見たことも、スケートボードにのめり込んだきっかけのひとつでした。この頃江川選手は、芸能事務所に所属し、テレビドラマやCMなどにも出演していました。そこで得た収入で、スケートボードを携えてアメリカへ飛び、大会に出場することもありました。

過去のインタビューでは、その時に感じたスケートカルチャーを日本に持ち込みたいという想いが、漠然とした目標と語っています。

当時特に憧れていたライダーは、豪快なスケートスタイルで世界を席巻していたクリスチャン・ホソイ。思い入れが強すぎたのか、なんと彼の自宅に押しかけたこともあるのだとか。ロックスターとしての全盛期を知っていることもあり、未だに江川選手のヒーロー的存在です。

スケートチーム「T19」への加入

江川選手は、1984年に誕生したスケートチーム「T19」のメンバーとしても知られています。当時、ホコ天でスケートを楽しんでいた江川選手にとって、T19は憧れの存在。そのスタイルやファッションなどに魅了されていました。

そんなある日、主宰である大瀧ひろしさんから、T19加入へのお誘いが来ます。以来、メンバーのひとりとして大会へ出場したり、ビデオに出演したりする日々を送ることになったのです。

なお、当時のホコ天にはストリートカルチャーの重要人物が行き交っていたことでも知られています。江川選手も、MILKBOYの創業者である大川ひとみさんやUNDERCOVERのデザイナーである高橋盾さん、fragment design主宰の藤原ヒロシさんと交流をしていました。その後、ファッションシーンへと足を踏み入れるきっかけでもあったと語っています。

裏原ブームの火付け役「HECTIC」をスタート

江川選手は22歳のとき、現在A-1 CLOTHINGのディレクターを勤める柄尚武さんと一緒にセレクトショップをつくります。月二回程度アメリカへと買い付けに行き、店舗にはスケーターやそのフォロワーに向けたアイテムが並んでいました。

たとえばスケートシューズ。当時の日本ではVANSが人気でしたが、adidasやNIKEといったブランドのスニーカーは、まだまだスケートシューズとして認知されていなかったそうです。そこで、自分たちなりの目線でセレクトした品揃えで販売。競合になる店舗がなかったこともあり、人気となります。

その後、ショップが軌道に乗ったタイミングでオリジナルブランド「PKG」がスタート。その後、開店前の店舗には長打の列ができるなど、社会現象のような盛り上がりを見せた「HECTIC」が生まれます。

ピストムーブメント到来、カーニバルトウキョウ

2006年頃にはじまったピストバイクブーム。渋谷や原宿が発症とも言われるこのブームの火付け役こそが「T19」です。

当時、プロスケーターのチームということで、羨望のまなざしを受けていた同チーム。ピストバイクという新たな乗り物を、ストリートカルチャーとして伝えました。これにより、若者の間でピストムーブメントが到来します。

江川選手もピストバイクの虜となり、32歳になった2007年には、自転車ショップである「CARNIVAL TOKYO」を開店しました。スケートショップのような感じで立ち寄れる、気軽な自転車屋を作りたかったというのが動機だそうです。

なお、このショップは江川選手がはじめて一人で立ち上げた事業であり、大きな思い入れもあるのだとか。現在はすでに閉店してしまいましたが、そこで得た経験は大きな財産になったのでしょう。

ストリートブランドのデザイナーとしての一面もある…

江川選手はプロスケーターや俳優、モデルだけでなく、ストリートブランドデザイナーとしての顔を持ち合わせます。前項でご紹介した「HECTIC」ではじまった服作り。そこから続く、「オンブレ・ ニーニョ(Hombre Nino)」というブランドの立ち上げや、XLARGEとの協業企画「PLUS L by XLARGE」などの軌跡を辿ります。

「オンブレ・ ニーニョ(Hombre Nino)」

裏腹ブームを牽引した「HECTIC」と同時に立ち上げた「オンブレ・ ニーニョ(Hombre Nino)」は、“スケートボードやBMXを通じて親子が共有できるプロダクトの発信”というコンセプトの下に生まれたファッションブランドです。自身の子育ての経験を踏まえたモノづくりという新たな挑戦が、2012年にスタートしました。

しかしその半年後、道半ばにして「HECTIC」をクローズすることに。仕事がなかったことから、Supremeの店員として江川選手がお客さんの接客をしていたこともあるそうです。

PLUS L by XLARGE

日本のストリートアイコンとして知られる江川選手。そこに目を付けたXLARGEが、江川選手に協業を持ちかけたのは2015年のこと。そこで生まれたのが、スケートボードマインドと江川選手らしさが交差する「PLUS L by XLARGE」です。

江川選手自身は、同ブランドのデザインに「HECTIC」でやり残したアイデアを盛り込みながら、現代のニーズに合う形でのデザインを施していると言います。ただし、流行に乗るのではなく、あえて逆行する形でのアプローチも多いのだとか。

また、服作りをはじめて17年が経ったものの、現在は服作りを始めた頃のような気持ちで仕事に取り組んでいると言います。今後は、現在のスタンスを保ちつつ、息の長いファッションやブランドのカルチャーを作っていきたいと語っています。

まとめ

江川選手は、日本のスケートブームを牽引してきたプロライダーであると同時に、ファッションを含むストリートカルチャーを生みだした人物でもあります。その半生は山あり谷ありではあるものの、挑戦に満ちあふれたものでした。今後も、江川芳文選手という人間がどのようなアクションを起こしていくのか、そしてどのようなムーブメントが巻き起こるのか注目し続けていきましょう。

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