神とも崇められるケリー・スレーターってどんなサーファー?過去11回もチャンピオンに!

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アメリカ国内で絶大な人気を誇り、未だに現役のサーファーとして活躍しているレジェンド「ケリー・スレーター」。その半生は多くの栄光に満ちており、ここ日本でも熱心なファンは少なくありません。今回はこのケリースレーターの優勝回数、プロ転向などの半生にスポットライトを当ててみましょう。

ケリースレーターの生い立ち

ケリースレーターは本名を「ロバート・ケリー・スレーター」といい、1972年に生を受けました。ケリーの出身地であるフロリダのココアビーチは、サーフィンが盛んな地域としても知られています。そのため、幼いころからサーフィンは彼の身近にありました。

ケリーには兄のステファンと弟のシーンという兄弟がおり、3人兄弟の次男として幼少期をフロリダでしました。彼の両親であるステファンスレーターとジュディモリアリティは、ココアビーチにて釣り具店を営んでいました。このことも、幼いケリーが海を身近なものとして感じるきっかけになりました。

ケリーがサーフィンを始めたのは彼が5歳のときでした。幼いケリーは遊び感覚でサーフィンを楽しんでいたことが、のちの高度な技術の習得に一役買ったと言われています。すぐさまサーフィンの天才少年として地元で有名になったケリーは、やがてアマチュアプレーヤーとして大会へ出場するようになりました。10才の時には、アトランティック・コーストで開催された大会の少年の部にて優勝しました。

その後、ケリーは次々と有名大会の自身が該当する部門での優勝を成し遂げ、12才のときには世界アマチュア選手権で3位でしたが、以後は4年連続で全米チャンピオンとなりました。このころには既に「無敵のアマチュア」として、その名を全米にとどろかせていました。

このころのケリーにまつわる逸話として語り継がれているのが、彼が14才のときに出場したイースタン・サーフィンフェスティバルにかかわるものです。この大会でケリーは自身が該当するボーイズ部門だけでなく、プロ部門でも優勝を成し遂げます。

この大会は優勝賞金が高額であることでも知られており、とりわけプロ部門の優勝賞金は非常に高額なものでした。ケリーの優勝を目の当たりにした多くの観客は、彼が若くして莫大な優勝賞金を手にするものだと考えましたが、彼はアマチュアとしての活動を続けるため、その賞金を受け取ることを辞退したのです。

このエピソードからは、ケリーが若くして他を寄せ付けないほどの技術を手にしても慢心せず、常に自信を客観視し、さらなる技術の向上を目指していたことがわかります。

18才でプロ転向、『50人の特に美しい人々』にも選ばれた

アマチュアとしての活動にこだわっていたケリーでしたが、18才を迎えた1990年にはプロに転向することとなります。プロ転向後、最初のシーズンにトレッスルズで開催されたボディグローブ・サーフバウトでの優勝を含むいくつかの栄誉・賞金を獲得し、ルーキーイヤーとしては十分なほどの成績を納めます。

これと同時に彼には多くの企業からのスポンサー契約の話が舞い込み、結果的にクイックシルバー社と数千万円ともいわれる高額契約を結ぶこととなります。また、プロに転向した18才ごろから顔つきが徐々に大人びていったケリーは「端正な顔立ち」という武器も手にし、このころからは多くの女性ファンを獲得。性別に関係なくケリーの熱心なファンは「スレーターマニア」と呼ばれ、サーファー誌ではその人気をエルビスプレスリーと比較することもありました。

また、この時期にケリーはピープル誌において「50人の特に美しい人々」にも選出されます。サーファー以外の業界からも注目を集めるようになったケリーでしたが、そのことはやがて競技への集中を阻害するノイズとなり、プロ2年目の1991年シーズンは43位という散々な結果で終了。ケリーは、生まれて初めてとも言える大きなスランプに陥ることとなります。

しかしながら、持ち前の向上心の高さとサーフィンを心から楽しむスタンスにより、ケリーはすぐにこのスランプを脱出。翌1992年シーズンには前半戦でライバルを大きく引き離し、大差をつけて初となる世界チャンピオンの座に輝きます。

この年を境に、サーフィンとそれ以外の物事とのバランスをとる術を習得したケリーは、サーフィン以外の業界でも活躍するようになりました。とりわけ映画への出演はこのころから多くなり、「モーメンタム」や「ブラックアンドホワイト」は彼が出演した代表的な作品です。

これ以後、ケリーは音楽活動などでマルチな才能を発揮しますが、本業であるサーフィンを疎かにすることはなく、1994年からは5年連続で世界チャンピオンのタイトルを保持するといった快挙を成し遂げます。また、各地で行われる大小さまざまな大会における優勝回数も増やし続け、1998年には一線から退くことを宣言しました。

しかし、1999年以後もスポットでの大会参加は継続し、出場した大会の多くで優勝。その技術が衰えていないことを多くのファンに証明していました。このころからケリーは「レジェンド」のような扱いをされることが多くなり、2010年には地元であるココアビーチに銅像が建立され、市長によって建立の日を「ケリースレーターの日」とすることが宣言されました。

また、このころにはサーファー誌の「50人の究極のサーファー」で1位を獲得し、名実ともその存在は歴史的なものとなったのです。

ケリースレーターの現在

2021年でケリースレーターの年齢は49歳となります。一度は第一線から退くことを宣言し、それが事実上の引退を意味すると考えられたケリーですが、2010年代に入ってからも数々の大会へ出場し続け、史上最年長の40歳で世界チャンピオンに輝くといった偉業も成し遂げました。

一方、若かりしころにサーフィンとそれ以外の物事を両立する術を身につけたケリーは、人口波を生み出すプールを開発するウェーブカンパニーを設立。このことには季節や天候を気にせず、だれもが好きなときにサーフィンを楽しめる環境を整備したいという彼の思いが込められているでしょう。

また、ケリーは自身のアパレルブランド「アウターノウン」やボードなどを取り扱うサーフィンブランド「ファイヤーワイヤー」も設立。これらのブランドの商品は日本国内でも販売されており、とりわけファイヤーワイヤーのアイテムでは「スレーターデザイン」が施されたボードが人気です。


これらの企業・ブランドの経営はどれも順調にいっているようで、ケリーの保有資産は30億円にも上るといわれています。また、華やかな半生においては有名女優などとの交際報道もあったものの、彼は現在でも独身を貫いており、このことにもケリーの「らしさ」が表れているかもしれません。

近年では間もなく50才を迎えるケリーの現役生活の終わらせ方にも注目が集まっていますが、その候補のひとつとして挙げられているのが東京オリンピックです。予定通り2021年に東京オリンピックが開催される場合、ケリーは同大会への出場をもって現役生活にピリオドを打つのではと言われています。現状でその可能性は五分五分といったところですが、もしも実現すれば彼の出場は東京オリンピックの重要なハイライトのひとつとなるでしょう。

まとめ

50年弱の半生において多くの偉業を成し遂げてきたケリースレーター。彼のサクセスストーリーと人としての魅力の根底には、彼が幼いころから身近にあったサーフィンを心から愛し、楽しむことをなによりも重視する姿勢が明確な理念として存在していると言えるでしょう。

「少しでも彼に近づきたい」「彼のようなサーファーになりたい」という方は、まずは彼のブランド「ファイヤーワイヤー」が販売するスレーターデザインのボードなどのアイテムを手に入れることから初めてみてはいかがでしょうか。

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